音楽ディレクターの男05

「しかしリスケはしんどいよな。俺も昔、担当アーティストから、ペットの犬が下痢だからレコーディング延期してくれ、って言われてさ。ぶん殴ってやろうかと思ったよ」
「あは、それはひどい。けどまあ、よくあることなんですよね、きっと」
「でもインフルエンザじゃ仕方ないわな。リスケの理由の中では、まだ納得できるほうだろ」

ぼくのオーダーしたビールと焼鳥が届いた。軽く乾杯する。
「まあ、スタジオも社内だし、実際リスケになったところでそんなに実損はなかったっから。リリースの予定も守れそうだし」
「そっか。しかし、この案件をちゃんと処理できたら、オマエの評価はさらに上がるだろうな。そろそろ主任にしてもいいんじゃないか、とか」
「いやいや、それはわかんないですけど。でもまあ、なんとかできてよかったです。この仕事はちゃんとやんないといけない、って思ってたんで」
「え?どうして?そんなに大きい仕事でもないだろうに」

宮中しほりの担当ディレクターを決めるとき、誰も手を挙げなかったそうだ。確かに、アイドル上がりのソロシンガーというのは、魅力的な現場とはいいがたい。先行のマキシシングルも、売上げはいまいちだった。それよりむしろ、一流の大御所や、伸び盛りの売れ筋を担当したいと思うのが人情だろう。特にいまは、合併を控えた大事な時期。大きな仕事で実績を残して、評価を上げてからクリスタルに合流したいと思うのは当然のことだ。なんといっても、鹿浜橋ミュージックは買収される側なんだから。

そんな状況で、ディレクターの先輩、キバさんがぼくをこの現場に推薦したみたいだ。ぼくは、担当現場にそれほどのこだわりはなく、むしろ任せられた案件をきちんとこなしたいタイプ。自分から希望を出すことがあんまりないから、不人気な現場を渡り歩くことも多い。今回も同じだ。みんなが嫌がったから、自分が充てられたんだろう。けれど、仕事だからそれでいい。そう思っていた。

「いや、キバさんから言われてたんですよね。この仕事だけはしっかりやれって」
「キバが?なんで?あいつ、この仕事には関係ないだろ?」
「ええ、そうなんですけど。でも、ぼくをこの現場に入れたのはキバさんみたいです。理由はわかんないんですけどね、なんか考えてるんでしょ、きっと」

ぼくが宮中しほりの現場に入ることが決まったとき、キバさんからLINEが来た。「今回の仕事はきっちりこなせ。誰からも信用される仕事をしろ」と。普段、そんなことを言われることはほとんどなかった。ちょっとだけ不思議に思ったけれど、あまりに気にしなかった。

ニシオカさんに、そのことを話してみた。
「なんじゃそりゃ。合併の絡みか?」
「いや、そこらへんはわかんないっす。どうせ聞いても答えてくれないし。まあ、言われなくてもちゃんとやろうとは思ってましたけど。でも、不思議ですよね、確かに」
「うーん、キバが絡んでくるとなると、なにやらキナ臭くなってくるな。得体の知れないモンスターが潜んでる可能性が…」
「や、やめてくださいよ。ただハッパかけられた、っていうだけの話ですよ」
そう言いながら、そんなわけないよな、なにかしらの展開があるんだろうな、とは思った。それはまだ、言わずにおいたけど。

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