音楽ディレクターの男04

一息ついたはいいが、やることがなくなった。ヒマを持て余して制作スタジオの予定表をみると、いちばん狭いB4スタジオが空いている。会社のロッカーには、自分のベースが置いてあった。フェンダー・メキシコのプレシジョン・ベース。スタジオに入る。8畳ほどの狭い部屋に、ギターアンプとベースアンプが2台ずつ。主にボーカル、ギター、ベースを録るための、スタジオというよりブースだ。

スマートフォンをミキサーに繋ぎ、THE YELLOW MONKEYの曲を探す。ブレイクのきっかけとなった名曲『Love Communication』をセレクトし、SWRのアンプにセッティングしたベースを構えた。ときどきこうして、スタジオでベースを弾く。『楽園』『See-Saw Girl』『真珠色の革命時代』。ランダムで流れる作品に、曲のとおりのベースラインを合わせる。ベースを始めたばかりの頃、貪るように聴いた。このバンドの曲はたいがい弾ける。

かつてはバンドでの成功を夢見ていた。愛知県のはじっこ、名古屋より浜松のほうがはるかに近い場所で生まれ育った。高校のときにバンドを組み、東京の専門学校へ行ってメジャーデビューを目指すつもりだった。作詞も、作曲もした。けれど、いざ卒業後の進路を考える時期になると、ボーカルだった同級生は家業のレストランを継ぐために調理師の道を選んだ。ギターだった同級生は「どうせプロになんてなれっこない」と、大学進学を目指した。ドラムだった1学年下の後輩は、「絶対俺も来年東京に行くから、そのときはマジで勝負できるバンド組みましょう」といってくれたけれど、地元で就職して20歳で授かり婚をした。

それぞれの人生にケチをつける気持ちはまったくない。30歳になったいま、彼らの選択が間違っていたとは思えない。むしろ、青すぎる志を抱いて東京に出てきた自分のほうがヘンだったかも知れない。けれど、新しく出てきたバンドが中学や高校の同級生で結成されたとか聞くと、少しだけうらやましくて、少しだけ悔しい。

東京でいくつかバンドを組んだけれど、なかなかうまくいかなかった。4つめのバンドでドラムとボーカルが大喧嘩して警察沙汰になり、解散。そんなとき、レギュラーで出ていたライブハウスの店長が紹介してくれたのが、鹿浜橋ミュージックの音楽ディレクターという仕事だった。裏方の仕事に抵抗はなかったかといわれれば、即答はできない。少しばかり逡巡したことは確かだ。けれど、バンドがやりたいのか、音楽がやりたいのか、1週間ほど考えて、残ったのは後者だった。バンドがやれなくても、鹿浜橋ミュージックに行けば、自分のことを肯定していられる。音楽が好きで好きでしかたない自分のことを。バンドで成功できなかったとしても。そんなふうに考えたような気がする。

制作スタッフの道を選んで7年。30歳になった。今さらミュージシャンになれるとは思わないけれど、これからも音楽とは付き合っていく。プレイすることが好きで、バンドのためならなんだってできると思っていた日々のことを、忘れたくない。だからこうして、ひとりで弾いている。

1時間ほど、そうしていた。ニシオカさんからLINE。「もう着く」。ベースをロッカーに戻す。スタジオに静寂が戻る。自分の願いのカケラみたいなものを、いったんB4スタジオに閉じ込める。

5分ほど歩いたところにある焼鳥屋・とりふくは、鹿浜橋ミュージックのスタッフ、アーティストたちのたまり場だ。18時を過ぎて、テーブルはだいたい埋まっている。ニシオカさんは、いちばん奥の袋小路にある4人掛けのテーブルで、ハイボールと焼き鳥をすでに始めていた。食は細いけれど、酒は強い。本人いわく、「本当はそんなに強くなかった。レコード業界で鍛えられただけだ」だそうだ。

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