音楽ディレクターの男03

アパートとマンションの中間のような自宅に着いた。シャワーを浴びて、厳重にカーテンを閉める。真っ暗でないと眠れない。昼夜が逆転することが多いので、日当たりの良さが恨めしい。ベッドに入ってスマートフォンをチェックする。ミヤタ部長から、合併前の面接スケジュールを組むよう指示。ニシオカさんから、今夜のメシの時間と場所。返信を急ぐような内容はとくになかった。久しぶりの布団に安心して、目を閉じた。

ソニー、ビクター、東芝EMIなど、この国の音楽ソフトは、ステレオを作っている会社が、そのステレオで流すレコードも作る、という形で発展してきた面がある。こうした会社は、レコード業界への進出が古く、業界では老舗にあたる。鹿浜橋ミュージックもそのひとつで、親会社はスピーカーユニットで世界シェア上位。けれど日本のレコード業界ではなんとか上位10社に入るくらい。大手3社を追う中堅グループの下のほう、といった位置にいる。

そんな我が社に、ロンドン発の大手メディアグループ、クリスタル・ホールディングスからの買収が持ちかけられた。音楽、映画、ミュージカルの劇場公演などを世界展開するワールドメジャー。日本のレコード業界にも早くから参入しており、クリスタル・ミュージック・ジャパンは中堅グループの最上位。ソニー、エイベックス、ユニバーサルに加えて4大レコード会社と称されることもあるほどだ。本業のスピーカーだけに集中したい親会社は、あっさりこの提案を受け入れた。すでに記者発表も済んでいる。あまり大きなニュースにはならなかったけれど、あと数か月で、鹿浜橋ミュージックは消滅する。買収やら合併やらはレコード業界では日常茶飯事だが、ぼくにとっては初めての経験だ。

合併を前に、クリスタル側が、鹿浜橋ミュージックの社員、150人ほどの意思確認をすることになっている。鹿浜橋ミュージックでどんな仕事をしているのか。合併後、会社に残るのか、そうでないのか。残る場合は、同じような仕事をするのか、違う職種にチャレンジしたいのか。経歴書のフォーマットが出され、提出するように言われていたけれど、適当に理由をつけて後回しにしていた。ニシオカさんは、その件でミヤタ部長につつかれて、ぼくをメシに誘ってくれたんだろう。なんだか申し訳ない。けど、まだ出すわけにはいかない。ぼくは制作部門の下っ端だから、上のほうでどういう話ができてるかはまったくわからない。それに、買収されたとしても、きっとやることはそんなに変わらない。アーティストを担当し、プロデューサーのビジョンに合わせて制作スケジュールやスタジオ、スタッフやミュージシャンを管理して、売れる作品を世の中に送り出す。ぼくはそういう立場だ。

目が覚めたのは夕方だった。たっぷり10時間ほど眠っていた計算だ。ニシオカさんとの約束まであと3時間ほどある。いったん会社に寄って宮中しほりの進捗を確認しようかな。急ぐ必要はないのに、10分で身支度を整えた。自転車に跨り、荒川の堤防に出る。深夜の帰宅時にはまったく気づかなかったけれど、土手にタンポポが咲いていた。

会社の食堂で朝食兼昼食のカレーを食べ、自分の席に向かう。デスクに見慣れない荷物。宮中しほりからの小包だった。体調管理に失敗したことへの丁寧な謝罪と、高そうなチョコレート。プロとして、スケジュール通りに仕事ができなかったことはマイナスなのは確かだ。本人は針のムシロだろう。けれど、いつも人当たりのいい彼女のことを思い出すと、強く責める気にはなれない。チョコレートを口に放り込んで、プロジェクトのリスケ内容を改めて確認する。まちがいなく、昨日の深夜、というか今日の未明にメドを立てたとおりに調整がついた。もろもろ片付いたからまた頑張ろうぜ、彼女にはそう伝えたい。ぼく自身も、この仕事はきっちりやらなきゃいけない理由があった。

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