どうか、笑って許して

依存という言葉が長らく嫌いだった。

自立したい、しっかりしなくちゃという気持ちだけがやたら強かった。ずぼらで抜けている私は大抵の場合あまりうまくいかなくて、できなければできないほど落ち込んだ。人にも物にも、出来るだけ頼らないで生きることが理想だった。
そうやって生きていたら、「程よい距離」というやつがとても下手くそになってしまって、人との距離が近すぎたり遠すぎたり、うまいこと行かなくなってしまったのは、もうご愛嬌として笑うしかない。
自立とは、一人で何でもできることではなくて、多くに広く浅く依存することなんだよ、なんてのは、聞いたことがあっても理解などできなかった。

私がこんなに曲を作り続けるのももちろん依存だ。自分を自分たらしめる最後の柱として、無様にしがみついているに過ぎないのかもしれない。その自分を私自身が「無様」だと思っているからこそ、依存が好きになれないのだと思う。

音楽に形があったなら、私の掌の中のそれはもう握りしめた跡がついていて、エゴと手垢まみれでぐちゃぐちゃなのかもしれないけれど、それでも捨てられない。最初に見ていた美しい理想の形がどこにも見受けられなくなってしまっても、それでもこれこそが唯一だと言う。べったり張り付いた古びたシールのようで、引きはがそうとすると自分の身が破れて散り散りになりそうで怖い。

この不安こそが、私を作っているような感覚さえある。

本来、私は多分あんまり感情の動く人間ではない。物欲も行動力もほとんどなくて大抵流されて生きてきた。自分の気持ちにも他人の気持ちにも、恥ずかしいぐらい鈍感だ。
でも音楽を通した私は、心から笑うし文字通りぎゃんぎゃん泣く。傷ついたら目くじら立てて反抗する。音楽を、その手段を、失うことが怖くて悩んだりする。必要だと思えばどこまでも強情になるし、他人に対して残酷な選択もする。
時々、私の中に年齢よりも幼い自分がいるように思えて焦る。まるで、青春時代とかに取りこぼしてきた感情を拾って集めるように、目まぐるしく喜怒哀楽しているのだ。
音楽にしがみついて離せなくて、それを情けないなと思いながら、その音楽に人生を彩られている。

彩られるから依存したのか、依存したからこそ彩られて見えるのか、どっちだろうか。

この先、音楽を続けることに本当にくたびれて、疲れてしまって、ここにこんなことを書いたことさえどうでもよくなって全部放り出す日が来たとして。ひどく固執して、それを通して生き生きと世界を見た自分がいることを、思い出せるだろうか。

その私には、今の私はどう映るのだろう。
同じように無様だと、思うのだろうか。