握りしめる

今日の夕飯は豚ロース一枚。以上。

夏のせいだと勝手に思っていたが、ここ最近本当に食が細くなった。心配した母が、お肉を一枚一枚ラップに包んで冷凍庫に置いていってくれた。フライパンで焼くことさえ面倒で、冷凍のまま電子レンジで温めて齧った娘を許してほしい。
もともとは、キッチンに立つこと自体はかなり好きな方で、ほぼ毎日自炊していた。だが食べる当の本人が食事を楽しめなくなって、振る舞うような相手もいないとなると、途端に料理に意味を見いだせなくなった。またやる気が出るまではとりあえずいいかなという気持ちである。

じゃあ、たとえ誰も聞かなくてもただひたすら続けている曲作りは楽しいのかと訊かれたら、「はい」とはちょっと言えない。はっきり言って楽しむにはあまりに過酷な作業だ。
例えフルコーラスが頭の中で出来ていても、それをドレミに落とし込むのは一苦労だし(残念ながら絶対音感は育たなかった)、無論フルで出来ている時の方が珍しい。
頭の中で出来なかった部分はひたすら歌って作る。納得いくまで繰り返して、それをMIDIキーボードで打ち込んで、何度も何度も再生する。私自身が覚えられないフレーズは誰の耳にも残らないので、後になって口ずさめない部分は殺して作り直す。
丸一日費やしたのに何も進まなかった日も決して珍しくない。いつか、頭の中にあるアイデアだけでも、まるごと吸い取ってデータに出力してくれる素敵な機械が出来てくれないかなんて願っている。
 
ただ、「出来た」と感じるあの瞬間だけは、楽しさも、意味も意義も、その価値も、全てがどうでもいい。
見えない触れないけれど確かにある空気のようなものが、己ととことん向き合った結果、最後には掌に乗せられる結晶に変わる、その一瞬。世界のどこかの誰かでなく、今ここで私が作らなかったら未来永劫生まれないものが生まれた瞬間。その時私はひどく安心する。意味が分からないと思うが、安心するとしか表現できない。よかった、また形に出来た、次はどんな曲にしよう、みたいな、わけのわからない達成感が湧く。
 
私にとって曲作りは、面倒くさいから今はいいやとか、どうせ誰にも届かないならやめようとか、そういうものではなかった。「作りたい」という欲求でさえないかもしれない。こんなこと言うと恥ずかしいが使命感に似たものがあった。おいしいものが食べたいわけではなくてもお腹は空くように、まるでそれが必要であるかのように「曲を作らなくちゃ」と思うのだ。
 
短い夕飯を終えて、私はまたPCの前に座っている。今日はこの文章を打ち終わったら、歌詞を書こうと思っている。