鏡に向かって笑う

古い伝統曲や民謡が好きだ。特にそれが「読み人知らず」だと、どうしようもなくロマンを感じていた。作者は顔も名前もどんな奴なのかも忘れ去られて語られることはないのに、その作品だけは後世まで長く長くいろんな人に歌い継がれて生き続ける。私の理想の音楽の形だと思った。思っていた。

本当はあまり良くないと思うが、私は曲を聴いて、好きだと言ってくれるのなら、お金も称賛も羨望も何一つどうでもよかった。
ただ私は自分の作った曲を、知っている人にも知らない人にも、たくさんの人に聴いてほしかった。
そのためには、存在を見つけてもらわなくてはいけなかった。見つけてもらうためには目立たなくちゃいけなくて、曲を黙々作っているだけでは足りなかった。上手くなって、人を引き付ける力を持って、すごいやつだと思われなければ。すごいやつの作ったものだと値を付けて、商品として成立させなければ。
作者のことなど隅に置いて欲しいとさえ思っているけれど、作品を売り込むためには、確かに作者が必要だった。

「でもあなた、神様に愛された人じゃないじゃないですか」。
言っちゃ悪いですけど、と頭につけて、ある人にそう言われたとき、私は苦笑いしかできなかった。特別容姿が良いわけでなく、特別気性が苛烈なわけでなく。音楽以外には何一つ、興味も特技もなく。何よりネックなことに、そんな自分自身を信じているわけでも、愛しているわけでもなく。

「あなたみたいな子が、ミュージシャンとか言ってでばるの、絶対変なのにね」。

知っていた。私にはひとつ、致命的な矛盾があった。自分のことが嫌いなのだ。自分に注ぐだけの健康的な自信や愛情は、全部曲に注いでしまった。私自身が前に立って、曲を導いてあげなくてはならないのに、その肝心の私自身がひどく弱いのだ。

音楽をしていない時の自分には何の価値もないように思えて、怖くて仕方がない。かといって、例えば歌っていたとしても、自分より上手に歌える人がいることを思うと胸のあたりが閊えるような感覚がある。結局どちらにせよ怯えている。
誤魔化すようにそのことすら曲にする。曲に出来れば少し慰めになった。私の抱える恐怖感に、「曲に出来るほどの価値がある」と、思いこめたからだ。

私自身のことなんか放っておいて、どうか作品にだけ目を向けてください、なんて通用しない我儘だ。その実、「読み人知らず」に憧れるのも、悩んだり苦しんだりするくせに音楽から離れられないのも、私の作曲へのプライドとかこだわりとか、そんな素敵なものではなかった。

長年にかけて培われた、自己愛不足の裏返しだった。