雑踏、見上げる

「音楽ってのはさあ、女と一緒なんだよ」。
お酒を片手にそういった話をするとき、ある人が冗談交じりにそう言ったのを思い出す。一晩楽しい時間を過ごして、あと腐れなくお別れできるくらいがちょうどいい。深くまで踏み込めば踏み込むほど面倒だと。

下品だなと思ったが、私はその人の、爪を短く切った左手の指先の皮膚が硬くなっているのを見た。ささくれもマメも慣れてしまって、指紋が薄くなるほどにつるつるした、弦の食い込みに耐えてきた指先だった。この人も、一夜限りでお別れすることが出来なかったのだろうと思った。
帰り道、渋谷の広告塔から、初めて聞く歌声が流れてきた。また、新しい才能と幸運を持った誰かが日本の音楽シーンに乗り出したのかと気付いた。彼はすでに知っている曲だったらしく、上機嫌に口ずさんでいたが、私はその背中を黙って見ていた。

こんなに毎日音楽漬けなのに、ここのところ、音楽を純粋に聞かなくなってしまった。最低限ブームの来ている音楽はかじるようにしているが、レンタルショップでアルバム10枚を一気に借りて一曲一曲吟味していた頃とはえらい違いだ。学生だったあの頃、聴いてないと死ぬのかというくらい延々とリピートしていた曲でさえ、ここ最近ずっと耳にしていない。
あの頃大好きだったそれらを聞くと、それに付随した自分の思い出があんまりに眩しくて、何とも言えない気持ちになってしまうようになった。
それに、その時間があったら、この前作った曲のコードをもう少し直したい。家に帰ったらすぐにキーボードを繋げなくちゃならない。それから、発声練習もしておかなくては。

音楽が、他人の作品を享受するものではなく、自分が構築していくものになった時、私の音楽の楽しみ方はがらりと変わった。それでも、私は間違いなく楽しんでいたのだけれど、ふと普通のリスナーだった自分を振り返ると、ある種の寂しさのようなものがにじむことがある。
 
音楽が大好きで、もっと知りたくてのめりこんだ。のめりこんだ結果どういうわけか、内からあふれる「大好き」が、最初に抱えていた「大好き」とは、少しずれてきたような感覚がある。
なんとなく、昔の「大好き」にはもう二度と戻れないのだろうなということも感覚で理解していて、ずっと、そのことに気付かないふりを続けているような気がする。

もし、私がいつか音楽活動をやめて、本当にただのリスナーになった時、私は新しい音楽が溢れるこの渋谷の街の雑踏の中で正気でいられるのだろうか。
考えたくもないしわからない。ただ少なくとも、今はまだ、一度踏み込んでしまったこの面倒な恋人の手を離す気にはなれないでいた。