音楽ディレクターの男01
目が覚めたら、会議室の中だった。照明は点いているが、誰もいない。とっくにスリーブになったPCに突っ伏す形で、いつのまにか寝入っていたみたいだ。デスクの上にはメモが散らかっている。そうか、まだ仕事の途中だった。いったんスタートしたレコーディングのリスケ(スケジュール再調整)。とんでもないトラブルの真っただ中にいた。もう40時間以上、布団には入っていない。
PCを立ち上げたら、右下に「02:45」との表示。手元の書類の更新履歴をみると、23時過ぎが最新版だった。そこから3時間以上。これはもう、居眠りとはいえない。爆睡、ってやつだ。窓の外を見渡しても、マンションの非常灯が点在するくらい。人の気配はあまりなく、月も見えない。喉の奥に嫌な粘り気を感じた。目覚ましついでに歯磨きでもするか。そう思って、ひとつ上のフロアにある洗面所に向かう。
レコード会社は、深夜3時になっても人の気配が消えない。海外アーティストのプロダクションとやりとりをする人、担当アーティストが出演する深夜の音楽番組をチェックする人、ただひたすら残務に追われている人。ぼくもそのひとりだ。
3面ある洗面台の真ん中では、同僚のニシオカさんが手を洗っていた。新人だったぼくと、向き合ってくれた先輩。いまは現場は違うが、いつも何かと目をかけてくれる。
「お、サトルじゃん。宮中しほりの件、なんか大変らしいな」
ぼくの担当案件が大炎上していることは、すでにニシオカさんも知っていた。
「ええ、まあ。一昨日から徹夜っすね」
「そりゃ、災難だったな」
「まあ、仕方ないっすよ。とりあえず何とかなりそうだし」
宮中しほりは、2年前にアイドルグループを卒業し、ソロシンガーに転身した。これまでに3枚のマキシシングルをリリースし、ようやく14曲入りのフルアルバムを出す。収録曲も決まり、オケのレコーディングは済んだ。あとはボーカルレコーディング、ミックスダウン、マスタリングを経て、リリースとなる。プロデューサーの指示のもと、具体的な制作作業を管理するのが、ぼくたち、レコード会社に所属する音楽ディレクターの仕事だ。
レコーディングは6日間で8曲の予定だった。先行シングルの音源はそのまま収録するので、余裕を持ってスケジュールを組んだはずだった。スタジオもウチの会社の中にある場所を使うことになっていたので、移動やら機材搬入やらの手間もあまりなかった。すでに2曲はプロデューサーからOKが出ている。あと3日で4曲、という段階になって、宮中しほり本人がインフルエンザにかかった。それで、このプロジェクトはいったん止まって、リスケの作業がいっぺんに降りかかってきた、というわけだ。
スタジオやレコーディングエンジニア、コーラスシンガーのスケジュールを組み直さなければならない。とんでもない仕事量。それに、一筋縄ではいかない職人気質のエンジニアたちに、また頭を下げるのもぼくの役目だ。気は進まないが、投げ出すわけにはいかない。あからさまに面倒なカオをするひとも少なくなかったが、何とか立て直す見通しが立って、あとは書類にまとめて関係者にメールするだけ、というところで、ぼくは睡魔に惨敗したわけだ。
とりあえず、顔を洗って歯磨きをする。ニシオカさんはいったん出ていったけれど、熱い缶コーヒーを持って、何も言わずに差し出してくれた。ブラックが苦手なぼくを思いやって、微糖のやつ。こういうところがデキるひとだ。